大杉山の年輪

「日有上人について」柿沼広澄師(後の大東院日明贈上人)

(昭和35年8月・大日蓮174号)

※読みやすいように、一部、表記を変更しています

本年(昭和35年)の9月29日には大杉山に、日有上人開基の有明寺が、全国僧俗の後援を得て、日達上人を中興開基として、本堂庫裡等が完成落慶の予定である。大杉山の有明寺が復元した時が、宗門繁栄の時と常に思っておったが、それが実現される時がきたのである。宗門の為にまことに慶賀にたえない次第である。本稿はいつぞや、本山客殿に於いてお話したものであるが、落慶を祝して大日蓮誌に掲載を請うたものである。

日有上人の俗称は南条家である。大石寺の大檀那・南条家の出身で、御伝記中、一番銘記することは「富士門徒化儀百十五条を製作して門徒の法式を定む」ということと、永享4年に京都に登っての申状奏聞である。門徒化儀百十五条というのは、百二十条というのが今日残っております。教義の方面からみますと、衆に対して、本因立行の奧義を講ずとありまして、富士派は釈迦仏を安置せざることとはっきり、御指南あったことがございます。

大聖人様は『本尊問答抄』に、
「然らば汝(なんじ)云何(いかん)ぞ釈迦を以て本尊とせずして、法華経の題目を本尊とするや。答ふ、上に挙ぐるところの経釈を見給へ、私のぎ(儀)にはあらず。釈尊と天台とは法華経を本尊と定め給へり」(御書1275㌻)
と言われており、日興上人も「釈迦を安置せざること」と書き物の中に書かれております。

日有上人は『化儀抄』の中で、
「当宗には断惑証理の在世正宗の機に対する所の釈迦をば本尊には安置せざるなり。其の故は未断惑の機にして六即の中には名字初心に建立する所の宗なる故に、地住己上の機に対する所の釈尊は名字初心の感見には及ばざるが故に、釈迦の因行を本尊とするなり。其の故は我等が高祖日蓮聖人にて在(おわ)すなり」(日蓮正宗聖典1228㌻)
と申されている。
同じ日蓮門下でいながら、正宗以外で釈迦の因行を本尊とする事が分らないのである。

立正佼成会は今迄は大聖人様をかついでいたようであったが、今度はお釈迦様が本尊だと塗りかえをやった。釈迦を本尊とするのならば、大聖人様は31年の御苦労をする必要がない。お釈迦様を立てておるから、日蓮宗身延派が、天台真言念仏禅等を破折する事が出来ないのである。「君の方の祭ってるのもお釈迦様、こちらだってお釈迦様を祭ってるからお互こだ。阿弥陀様とお釈迦様だって親類筋だ」こう言われたのでは念仏宗も禅宗も破折が出来る筈がない。正宗が、日本仏教界と妥協が出来ない理由は、その本尊にあると言わざるを得ない。此の本尊あるが故に諸宗を折伏してやまないのである。

日有上人の伝記中に
「先師の旧業を継がんと欲し、永享四(壬子)富士を出で華洛に至り奏聞す」(聖典924㌻)
とある。永享3年は大聖人様の百五十遠忌に当っていますから、百五十遠忌とは百五十回忌のことです。大聖人様の百五十回忌を厳修した翌年、その御報恩の為に京都に登って申状を奏聞されたとも考えられます。

時の将軍は足利義教という人で、此の人は最初は僧侶だった。前将軍の4番目の子供だったので、坊主にさせられてしまい、26才の時には、親の御威光で天台の座主に迄もなっておる、それが36才で将軍になった。還俗将軍と言われた人だ。だから、仏法の事を知らない将軍とは違う。仏教が分る筈である、申状を奏上してもはりあいのある将軍という事が出来る。

義教の父・義満は金閣寺や銀閣寺を建立し仏教に力を入れた。政治にも意を用い、義満は直訴というものを許した。これは中々の英断であると言わねばならない。顕本派の日什という人は、足利義満に、立正安国論の講義をしておる。日什は妙満寺の開祖となっておる人で経巻相承と言うことを言っておる。富士の相承を伝えた、日有上人が、此のような事実を見聞して黙居しておる筈がない、富士の正義を伝えるのは今なりとして、永享4年、都に登ったのである。

処が、此の義教という将軍が大変な代物であった。或る時、田舎の大名が将軍に挨拶にきた時、猿をかっていたが、猿のひもをといて猿に挨拶させた。田舎の大名は猿にひっかかれてべそをかいたという。義教の父・義満は9つの時に、京都の方に見物に行って、大変景色が良かったから家来に此の土地を持ってこいと命令したという我儘者であった。日有上人は富士の法脈をついだ程の有徳な方であったから、申状を奏上しても、さほど迫害を受けずに終わったが、此の義教に迫害を受けた人に有名な鍋かぶり日親上人がある。これは永享11年の事である。

日親上人は高さ4尺5寸で広さ4畳の間に、28人もいれるという牢屋にいれられた。4尺5寸の高さに、上から五寸釘がささっておるというから、高さは実際は4尺である。この中に28人いるというのだから、大変である。さすがに牢番が可哀想でみていられないといって、20人を出して8人いれたというが、その8人の中に日親上人が入っていた。
義教は最後は自分の臣下の屋敷で殺されておるくらいの悪業の持ち主であるから、富士の教義を理解することが出来なかったのも無理がない。

足利時代は禅宗が一番繁盛した時代で、これは足利尊氏が禅宗を非常に信心したからである。尊氏が建立した寺で有名なのは天龍寺である。
天龍寺は後醍醐帝の追福を祈って、尊氏が建立した寺である。開山は夢窓国師であるが、夢想国師は後醍醐帝側についていたが帝が崩御されると、尊氏側について、後醍醐帝の御謀叛なぞと批評しておる大変な国師である。

足利義満は支那と貿易を盛んにやった。当時の支那は明の時代であったが、義満は支那から、日本国王という称号を貰って得意に思っておった程の人である。天龍寺船といえば貿易船の有名なものであるが、一航海やると5千貫の利益が天龍寺に入ったといわれる。
当時武士は文盲で支那からきた手紙なぞは読む事が出来ない。これを読めたのは僧侶だけであった。貿易の帳面づけは禅坊主がやるという時代であった。今でも禅宗は寺の数の多い事を誇っておる。禅宗系寺院2万5千箇寺はほとんど此の足利時代に出来ておるのである。

御伝記によりますと
「終に血脈を日乗に付して甲州河内杉山に蟄居(ちっきょ)して読経唱題の外(ほか)又所作なし。毎月斎日ごとには杉山より大石寺に詣でたまふ。行程百有余里なり。斯(ここ)に於て文明十四(壬寅)九月二十九日、臨終正念にして没したまふ」(聖典925㌻)
ということが書かれてございます。行程百余里というのは恐らくこれは六丁一里のことであろうというふうに考えます。百里は離れておりません。

今でも新説と申しまして坊さんの住職になる資格が出来るという儀式を毎年一回ずつ客殿でいたしますが、その儀式をやりませんと一人前の坊さんにはなれない。その儀式をやって、はじめてお説教というものが出来るということになっております。なんでも口が達者ならばお説教出来るというわけじゃない、必ず此の新説式という儀式をしてからはじめてお説教が出来る。それ迄はお説教を致しましても自分の責任がない、責任は師匠がとることになっております。

それから後は説教は自分で責任をとらなければなりませんから、あまりうかうかいたしては出来ないということになる。その儀式執行の次の日は必ず大杉山まで参詣をしてくることにきまって、これは今日でも続いております。それは日有上人のお徳を慕って、そう云うことをしておるのでございます。日有上人と云うお方は大変お徳の高かった方と見えまして、大石寺から参りますと途中に下部のお湯というのがあって、子供の瘡(かさ)だとか、そういったものの治療に大変よくききます。下部のお湯へ甲州、或は信州から参りますが、どうしても下部のお湯で治らなければ大杉山の日有堂へお参りすると治るという伝説があったそうで、下部のお湯より有師様の方がきいたというのであります。

面白いのは赤ちゃんに瘡というのが出来ますが、ああゆうものは有師様の所へお参りすればなおると、其の為に鎌を持って行ったという。古い鎌なぞは、お百姓のところは多くさんありますが、その鎌を納めてたと言います。仲々昔の人もしゃれたことを云ったもんで、何故鎌をあげたかというと、草を刈るというんで、鎌をあげた。また古い鎌を日有堂にさげれば子供の瘡はなおってしまうと云うんで、昔は古い鎌をもって子供の皮膚病の為に日有堂にお参りに行った。

或は今尚、門前に大きな銀杏の木がございます。銀杏の木というのは年数がたちますと、樹肌の或る部分の恰好が女の乳房みたいになりまして、先から液が出ます。ひどいものであればサーッとほとばしるように出ることがありますが、そういうところから乳の出ない人は杉山の日有堂にお参りすると、必ず乳が出るというようなことで、昔は大変お参りが多かったそうでございます。今尚、近所へまいりますればその話を致しております。最近はこう云う話をしても、聞いている方でも本気にしませんのでどうかと思いますが、これもお徳をしたう心から出た事でしょう。日有上人については偉いお方であった丈に大変色々な伝説がございます。

近年は伝説というものを否定して、或は科学的に解釈しまして、これも嘘だあれも嘘だと言って、否定するというのがはやりでございますが、又最近になってからは伝説は伝説として残しておくということも結構であろうという事になった。伝説ということも、信心を倍増するために、といったような伝説、或は事実あったかもわからないですから、伝説としてとっておくという事になった。何でも伝説を否定した方が進歩的な人間に見えるような時代があって、それも嘘だ、これも嘘だというようなことでございますが、今はそれは、それなりの話にしておくという事がいいんじゃないかと思います。

日有上人の伝説の中で次のようなのがあります。
「或時(あるとき)、有師笈の中より一の鍋を取り出(い)だして家内の諸人へ振る舞ふとて、件の鍋をかけ常に所持の紙袋より米を取り出だして飯と為す。下女之れを見て笑って云はく、此の飯一二人猶応じ難し、况んや家内の諸人に及ばんや。師云く、火を焼(た)け火を焼けと。たくに随って此の飯鍋に余る。此の如き瑞を見るに凡人に非ざるを知る。其の後尊敬日々に重し」(聖典925㌻)
ということを書いてございますが、これはこの外にも類がありまして、お釈迦様の弟子がやっぱりこれと同様な鍋を持っていたと経文に書かれております。その鍋はやはり米を一寸と入れると、どんどん増えて何人前でも増えたという話がございます。やはりそう云う鍋があったのかも分りません。これもお徳のある所から此のような話が出てきたので、あるいは神通力の中にそう云うのがあるかもわからない。

こういった伝説の経路というものを研究する必要がございますが、まるっきり仏数に関係のない伝説じゃない。それから大杉山辺じゃ釜で飯を炊かないで鍋で焚きます。あの辺ではいろり一つしか置いてありませんから、炉端で飯を焚くには鍋が一番いい、これはかけておくんですから釜じゃかけるところがありません。釜では火の廻りが悪い、鍋だと平面的に火がいきますから、あの辺では山の中でいながら仲々焚物なんか倹約いたしますから、あたる為の火、飯を焚く為の火そう云う風に別々にしておきません。炉端が一つで全部やってしまう。坐っている中に何でも出来てしまいます。見ていると立つ事はいらない、全部用意して鍋掛けて、それから又鍋を掛ける、何でも動かないで、主人が御馳走してくれる。それでこの辺では釜は使いません。成程、釜だとへっついというものがいる。へっついでなけりゃ焚けません。ところが鍋ならば炉でも焚ける、そう云う風に大杉山では釜は使わないんで鍋を使っておる。

或る時、日有上人が宿にとまったら宿屋の子供が、大変多かった。どうだい一人位は坊さんにしたらどうだと云った。ところが宿屋の主人が子供を坊さんにするのは嫌だったと見えて、いいえあれは全部よその子で、一人だけ内の子ですよと、こう云ったという。日有上人は、ああそうか一人っ子じゃあ坊さんには出来ないからよろしいと云っていた。所がその後、その家は代々子供が一人しか生れないという、一人しか居りませんといった為に一人しか生れないと、それで大変困ると云うので15代目の日昌上人の時に日有上人におわびを申し上げた。(日有上人は9代目)歴代で数えると15代目の日昌上人の間、一人しか子供が生れない、どうして一人っ子しか生れないのかと言うと、だんだん考えていったら、親父の親父のその又親父が、有師様に嘘をついて一人しかいないと云ったんで、それから生れないのだと考えついて、日有上人の所にあやまりに行ったところが、それから又子供が生れたと云うような伝説がございます。

又あすこには今尚ございますが本堂の裏の崖から筧の水を引いて、いろいろ炊事を致して居りますが、有師様の時分には、その水が今日はお客が余計くるというと、よけいに水が出たという。その水は今でも流れております。お寺のすぐ傍に檀家総代の人が家をこしらえまして堂守しながら住んで居りますが、やはり今でもそう云う事を云って居ります。私が大杉山にいった時も、今日は貴方が来るのは分って居りましたという、それでどういうわけかと尋ねると、今日は余計水が出ましたから、やはり貴方がお出でになるんだと思いました。今でも此れは効力があるらしい。山ですからお客様が来て水がないと困る。それでお客が余計来る日はよけい水が出る。誠にどうも有師様の御威徳のしからしむるところです。5、6年前ですけれど私が大杉山に行きました時に体験しました。

「毎月斉日ごとには杉山より大石寺に詣でたまふ」(聖典925㌻)
と日有伝にありますが、これは今でも月の7日、12日、28日は本山の御講日で御座います。これを毎月の斎日と言います。此の時には大杉山から大石寺に日有上人は参詣したというのです。約十里はあると思います。此の山道は今でもお上人路と言われて、大杉山から大石寺に来る直経の路です。
ですからお山では、信心のある者は有師さまの参詣の下駄の音がきこえると言ったものです。もちろん、有師さま遷化後の話です。

日有上人の御墓は、大杉山有明寺にありますが、それは大石寺の方に向いて建てられております。これも日有上人の信心というものを表した訳であります。見たという人にはあった事はありませんが昔、御堂に有師様が履いたという下駄があったそうでありますが、一本歯の下駄であったと申します。山道を歩くのには一本歯がよろしい。河原を歩いても、石ころがつまらない。休むとひっくりかえるので、一本歯だと休みなしに歩けます。したがって一本歯の方がスピードが出る事になります。
伝説というのも昔の人が、なんとかして、吾々に信心を起こさせようとして話が出来てきたと思います。

日有上人は本宗に置いては、まことにお徳の高い方、大石寺を万代の安きにおいたお方としてほめたたえますが、余所の宗派では大変に悪く言っております。何故悪く云ったかと云うと日有上人の時代になって日有上人が始めて折伏をなされた。例へばこの時分から大聖人様から百年たっておりますので、いろいろな宗旨が出来て、自分の義を立てるようになっていた、自分はこう思うものだ、それが百年目で、露骨になって来た。

先程申しました、顕本の日什と云う人が大石寺に相承があるんだから、おれの方にもそう云う相承があるんだと云うので経巻相承と云うものを云い出したので、そこで日有上人はそう云うものじゃないと、大聖人様の正義を伝えて諸国を折伏して歩いた。

堀上人(第59世日亨上人)のお説では歴代になられたけれどほとんど本山に居なかったんだろうと言われております。京都方面を別といたしまして奥州方面にも折伏をして歩いた。その為に非常に外の宗旨から悪く云われたんだという事を堀上人は申してございましたが、この本門立行と云うような事を談じて強折をなされた。百二十ケ条というのは、これを聞いた弟子の方が書きとめておいたのであります。百二十ケ条を講義しなければならなかったと云うのは外の宗旨の方から、いろんな事を云い出して、大聖人様の正意と云うものは釈迦正意だと云うようなものを出して来る。そう云う所から日有上人が折伏をしなければならない時代になって来た。その為に外の宗旨におきましては大変悪口言っておるのであります。

日蓮正宗聖典には「永享四(壬子)富士を出で華洛に至り奏聞す」と書いてございますが、他宗派の本を見ると奏聞を遂げんとして果たさずとあります。これも悪口の一つでしょう。云うなれば正宗の折伏と云うものは日興上人の時代からありましたがそれをいつも文字通りに日本中、股にかけてと云っても差しつかえない位、折伏逆化あそばされたのが日有上人であるとそう申してさしつかえないと思います。

以上まことに研究不足のお話をいたしまして時間を頂きまして申し訳ありませんが、私といたしましては、これ以上お話が出来ませんのでこれでもってお話を終りといたします。

大杉山有明寺再建落慶入仏式(大日蓮176号)

(昭和35年9月29日 大杉山有明寺再建落慶入仏式)

本宗山梨の名刹有明寺の再建落慶入仏式が御法主日達上人猊下大導師のもとに去る9月29日正午より厳修された。
有明寺は本宗中興の祖と讃仰される総本山第9世日有上人の御隠棲、示寂の地として宗門の由緒ある寺院である。

即ち有師は本因下種宗祖本仏の宗開両祖よりの正義を強く主張し、また富士門の化儀を制定し、更に国諌を行われる等その御事蹟はあまりにも有名である。
文明14年、此の地に帰寂せられるや内外の道俗はその徳を慕ってこの深山に詣でるものが絶えず、元禄年中には有明坊日徳大徳がこの御廟地に有明寺を建立したのであったが、山間僻地のこと故、近年は荒廃甚しく、為に日淳上人その再建を志されて有明寺復興実行委員会が設置され、更に現御法主上人の再建促進の御命に依り着々とその準備が為された。
工事も交通不便な山地の為、困難を極めたが本年8月20日に上棟式を執行、今般目出度くその落成を見るに至ったものである。

当日は日有上人御正当会の御意義ある日に当たり、天も此の慶事を寿ぐかの様に雲一つなく晴れ渡り、澄みきった秋空の下に新装成った雁宇(がんう)は堂々と周辺りを圧しているかの如くであった。
総本山よりは御法主上人猊下の御臨席を仰ぎ、総監・柿沼広澄師、重役・高野日深能化、漆畑日広能化、宗務職員の方々、其他第一第二布教区を中心とする遠近末寺の諸大徳が参列し、その数は五十余名の多きに達した。
また学会よりは小泉本部最高顧問、渋谷中部総支部長、北条本部常任委員の大幹部、並に地元の五百人にのぼる信徒が、法華講よりも総本山を始め東京、其他各地の幹部多数が参詣し堂内を埋め尽くした。

法要は正午より始まり、献膳、方便寿量と如法に進められ、次で御法主日達上人の朗々たる慶讃文奉読は堂の内外に力強く響き渡った。
自我偈唱題の後、復興実行委員の渡辺慈海師の経過報告、柿沼総監の挨拶、秋田第一布教区支院長、学会より渋谷氏、小泉氏の祝辞等があり、鈴木有明寺総代の謝辞を最後に、盛況裡に滞りなく終了した。
なお猊下には今後も益々四域を整備し、由緒寺院にふさわしき寺観を整えて行き度き思召しと洩れ承っている。

10月よりは身延線甲斐常葉駅より定期バスも開通せる由、弥々名実共に名刹有明寺の大発展が期待される。
因みに再建された本堂は122平方米、新築の庫裡は85平方米である。

「慶讃文」
昭和三十五年九月二十九日 日有上人御正当会を卜し 有明寺を改修し四域を清浄にして香華を供え 恭しく本堂落成慶讃の式を行ふ
謹んで
南無本地難思境地冥合久遠元初自受用報身 人法一箇独一本門の大御本尊
南無本因妙の教主一身即三身三身即一身三世常恒の御利益 主師親三徳大慈大悲宗祖日蓮大聖人
南無法水寫瓶唯我与我本門弘通の大導師第二祖白蓮阿闍梨日興上人
南無一閻浮提の御座主第三祖新田卿阿闍梨日目上人等の御宝前に申して言さく
抑々大杉山有明寺は今を去る四百八十有余年前 総本山第九世日有上人の開創なり
日有上人は 内にあっては本因立行の奧義を談じ富士門の化儀百二十一箇条を制して一宗の規範を顕示し 外に向かっては破邪顕正の国諌をなせり
而もその徳は国内に靡(なび)き今本宗中興の祖と尊崇せらる
然れども有明寺は山間僻地のため近年は荒廃甚しく先師日淳上人有明寺復興の機運熟するや有明寺復興実行委員会を任命せらる
緇素又この浄業に率先浄財を寄進して協力せり日達先師の志を継承して今日ようやくその完成を為し茲に慶讃の儀を厳修するは誠に上は宗祖大聖人の御威光と下は宗内僧俗一致の協力の賜なり
有明寺は今後総本山に於て管理し愈々堂宇の整備に盡すと共に我が宗門は日有上人の御遺誡と国諌の御精神を奉戴して折伏弘教に精進し一天広布の実現を期せんとするなり
宗祖大聖人云く 法華折伏破権門理の金言なれば 終に権教権門の輩を一人もなくせめおとして法王の家人となし 天下万民諸乗一仏乗と成って妙法独り繁昌せん時 万民一同に南無妙法蓮華経と唱え奉らば 吹く風枝をならさず 雨壤を砕かず 代は羲農の世となりて 今生には不祥の災難を払ひ長生の術を得 人法共に不老不死の理顕れん時を各々御覧ぜよ 現世安穏の証文疑い有る可からざるものなり と
願くば宗祖大聖人我等が微意を愛愍納受せられ有明寺の寺運興隆をなさしめ給はんことを
 昭和三十五年九月二十九日
 日蓮正宗総本山第六十六世嗣法日達 敬白

御法主日顕上人猊下お言葉(大日蓮425号)

(昭和56年6月19日 日有上人第五百遠忌報恩 並 有明寺本堂・庫裡新築落慶入仏法要の砌)

本日は当・有明寺におきまして、当山開基・総本山第9世・日有上人の第五百回遠忌、並びにその御報恩のための本堂・庫裡新築落慶入仏法要を奉修致しましたところ、有縁(うえん)の信徒各位には多数、御参詣になり、まことに盛大に法要を奉修致すことが出来まして、仏祖三宝尊並びに開基・日有上人にも、寂光の都においてさぞかし御嘉悦(かえつ)あそばされておることと存ずる次第でございます。

当寺はこのような深い山中にありますので、昔から御参詣になる信徒も少なく、そのために非常に荒れておった時代がありました。実は私も昭和20年に、その当時に教学部長を務められており、本日も参列をされておる法道院主管・観妙院御能化の引率のもとに、当時の大石寺大坊の在勤者20名程と共に、当寺に伺ったのであります。
その当時は、今日のような立派な舗装道路は全く無く、甲斐常葉(かいときわ)の駅から細い道を歩いてきた記憶がございます。そして驚いたことには、庫裡の壁に一間ぐらいの大きな穴があいておりまして、そこからは風も入ってきますし、夜になれば月も見えるというような具合いでありました。そのようななかで当時、現在は総本山の近くにある寿命寺の住職を務めておる竹内応正師が、住職として頑張っておりました。とにかく、そのような状態の寺でありながらも、僧侶が常住して御本尊様をお護り申し上げ、日有上人の御霊蹟を守護して今日に至ったのであります。

その中間において、日達上人の時代に一度、本堂を新しくされたのでありますが、やはり時代と共に建て物も傷(いた)んでまいりましたので、当寺の住職が大変熱心に有明寺の復興を請願し、たびたび総本山に足を運んで、その熱意を披瀝しておったのであります。
その熱意によるところもあり、また特に今年は日有上人の第五百遠忌ということでありますので、総本山としても深く御報恩の道を考えておりましたところ、幸いにも住職の努力によりまして、この近辺の地主の方々より〝お寺に土地を分けてもよい〟という話が増えてまいりましたので、この際、そのような土地も購入し、本堂・庫裡を新築して日有上人の最もゆかりの深い有明寺を復興させ、第五百遠忌の御報恩にお供えした次第でございます。

日有上人という御方は、室町時代の方であります。この時代は、六老僧の各門流があちらこちらに拡張致しまして、京都その他、日本全国に寺が建ち、それぞれの門流の勢力を増していった時代であります。しかしながら、その勢いと共に大聖人様の正しい血脈相伝の仏法が弘まればまことに結構なのですが、五老僧の門流は、その元から大聖人様の三大秘法の義に欠けるところがありまして、源が濁(にご)っておりましたために、その門流の教えそのものが非常に濁っておったのであります。しかも、その濁った立場から様々の義を立て、教義を主張したために、全国に誤った形での大聖人様の仏法が、非常に勢いを得て弘まったのが、この時代であります。

丁度その頃に日有上人がおでましになられたのでありまして、諸国を回遊せられ、卓越した信・行・学の御境界のうえから他の門流の誤りをきちんと正して、各所で折伏をあそばされた御事蹟が拝せられるのであります。しかしながら、なんと申しましても特筆すべきことは、その大聖人様より日興上人に伝えられた正しい仏法の血脈の法義を、万代に残すために御高徳の御立場から、その筋目(すじめ)をはっきりと門弟に教えられたということであります。いわゆる、権実(ごんじつ)・本迹(ほんじゃく)の筋目を正されたということでございます。
即ち、日本において、権教を中心とした念仏・真言・禅宗等の宗派の誤りを示され、更にまた、天台乃至大聖人様の教えとして法華宗を称するところの各宗がそれぞれ、やはり大聖人様の教えの本義に背いておる、その根本のところをはっきりと示されて、本宗の法義は〝師弟相対して南無妙法蓮華経と唱え奉るところが久遠の釈尊の、本因妙の当相当体であり、そこに真の末法の即身成仏がある〟という所以を、きちんと示しおかれておるのであります。

また最近は、謗法論議が非常に盛んでありますが、日有上人は謗法について宗門の僧俗をきちんとお戒めあそばされて、いかに法が弘まっても、その法が誤っておるならば絶対に仏法の功徳がない所以を、お示しになっております。そして特に、謗法とはどういうことかということにつきましては、
「法華宗の大綱の義理を背く人をば謗法と申すなり」(有師化儀抄・日蓮正宗聖典1213㌻)
と、はっきりとお示しであります。

即ち、法門には〝大綱〟と〝網目〟ということがあるのであります。〝大綱〟とは、大聖人様が御出現あそばされての、仏法の大きな筋道をいうのです。それに対して〝網目〟とは、小さな、簡単な色々の内容をいうのであります。我々凡夫は、小さい意味での心得違いや間違った考え方をするということは、少なからず有るわけでありまして、法門に関するところに付随する細かい誤った考え方、あるいは小さな心得違いがあっても、それは真の謗法ではないのであります。そのところを日有上人は〝根本の大綱に違(たが)うところが謗法である〟と、はっきりとその筋道をお示しでございます。
このことをよく考えてみるならば、今日、色々な人間が小さいところに執(とら)われて謗法論議を繰り返しておるという所以も実は、深く根本よりの善悪・軽重をもってかえって大きな誤りであります。その辺は総本山において私が、まことに僣越ではありますけれども、法主としての立場から〝謗法とは何であるか〟という所以について、大聖人・日興上人及び御先師の御教(みおし)えに基づいてきちんとそれを指南しつつ、今日は今日において、正しい仏法を奉行(ぶぎょう)していく覚悟でやっておる次第でございます。

日有上人という御方は大変に御高徳であらせられまして、今日でも沢山の教えが残っておりますが、不思議なことに、御自身がお書きになったものは全く残っていないということであります。では、どのようにして残っておるのかと申しますと、日有上人が仰せられたことを御弟子達が、いちいちそれを書き留めまして、日有上人がお示しになられた深い意義や筋道を誤りなく、また漏らすことなく文章にして、残しておかれたのであります。それによって今日、日有上人がどういう御方であられ、またどのような教えを立て進められて、仏法の法義並びに化儀を正しく顕わされ、まさに地に堕ちんとしていた富士門流を立派に復興せられたか、という所以が解る次第でございます。

この有明寺は宗門においても非常に深い意義のあるお寺でございまするし、皆さんがこの正法に値われて、しかも当寺に縁があって参詣をせられたことは、仏法のうえて深い因縁があるということをよく自覚せられまして、今日の法要を契機とされていよいよ信行に邁進されることをお祈り致し、一言、御挨拶に代える次第でございます。

「日有上人の御指南」

日蓮正宗教学部長・大村寿顕師(後の常秀院日統上人)(大日蓮425号)
(昭和56年6月19日 有明寺本堂新築落慶入仏法要の砌)

御法主日顕上人猊下をお迎えして、総本山第9世日有上人第五百回遠忌御報恩のための有明寺本堂庫裡新築落慶法要が、かくも盛大に奉修せられましたことを心よりお祝い申し上げます。まことにおめでとうございます。

日有上人の御事績につきましては、先ほどの御法主上人猊下のお言葉にもありましたように、寛正6年(1465)には総本山大石寺の客殿を創建せられ、また御宝蔵を校倉(あぜくら)造りにされるなど、総本山の境内を充実整備されるとともに、奥州・京都・越後方面を巡錫(じゅんしゃく)せられ、駿河駒瀬に本広寺を建立されるなど、その御功績は燦然(さんぜん)と宗史を飾っているのでありまして、日蓮正宗においては、第26世の日寛上人とともに、中興の祖と申し上げるのであります。
日有上人は、厳しい信心姿勢の上にも、民衆を愛憐(あいれん)する心温かな上人であったことは、きめ細かな御指南並びに、そのお振る舞いにうかがうことができるのであります。

日有上人は、応仁元年(1467)(祖滅186年)59歳の御時、この大杉山に法華堂を創して移られたのでありますが、その御高徳はたちまち近在に知れわたり、ひとたび大杉山の法華堂に詣でるならば、どのような願いも成就すると言い伝えられたのであります。

その言い伝えの一例を挙げてみますと、ある時、日有上人が、日ごろ大家族で食べ物に事欠く姿を見るにつけ、なんとか喜ばせてあげようと、鍋を取り出して火にかけ、常に持ち歩いている紙袋より米を取り出して鍋に入れたのであります。それを見ていた家人は笑って、そんな一握りのお米では一人か二人の口に入るのがやっとで、とても我が家の空腹を癒すことはできますまいと、日有上人の深い御慈悲を感謝しつつも申し上げると、上人は足りるか足りないかはあとで分かろう、とにかく火を焚(た)け、火を焚け、と家人に勧めたのであります。すると不思議にも、お米が沸騰するにしたがって御飯は増え、家の者が腹一杯食べても、まだ鍋に余ったということであります。この出来事を見て、これは凡人の仕業ではないと、人びとは日有上人を深く敬ったということであります。これは、日有上人にお徳があればこそ生まれた話なのであります。

また、この法華堂には、かつて古い草刈鎌が一杯納められたといわれております。それはどうしてかといいますと、赤ちゃんには、瘡(かさ)というおできができやすいものですが、そのようなものは、日有上人に御祈念してもらえばたちまちに治ると言い伝わったのであります。そのときに鎌を持って来たということであります。古い鎌などはお百姓さんの所にはたくさんありますが、それを御堂に納める理由は、草を刈る、つまり赤ちゃんの瘡をかって治すという意味の酒落なのであります。これも日有上人のお徳を讃えられたお話の一つといえましょう。

日有上人のお墓は、ここ有明寺から大石寺の方を向いて建てられております。これも日有上人の、大御本尊まします総本山に対する深い信心の表れであります。
日有上人は大杉山に入られた後、
「毎月斎日ごとには杉山より大石寺に詣でたまふ」(富士門家中見聞・日蓮正宗聖典925㌻)
と『日有伝』にありますように、7日・13日・15日の総本山の御講日には必ず大石寺に参詣せられたのであります。しかも、十里の山道を一本歯の下駄で歩いたと伝えられております。山道を歩くには一本歯の方が歩きよく、歯の聞に石が挟まらないし、また休むとひっくり返ってしまうので、休みなしに歩けてより早く歩けたということであります。

伝説というものは、昔の人がなんとかして我々に信心を起こさせようとして生まれたものでありますが、このような伝説が生まれたこと自体、日有上人はまことに徳の高いお方であり、しかも大石寺を万代の安きにおかれたお方であるからなのであります。
日蓮正宗の僧侶は一人前の教師になりますと、新説免許と申しまして、初めてお説法が許される高座説法の儀式が行われますが、この儀式執行の翌日は必ずこの有明寺に参詣することに決まっており、今日も続けられております。これも日有上人のお徳と、強盛な信心に倣(なら)って行われるのであります。

日有上人は、このように近在はもとより、全国を布教せられ、その折々に成仏への道を語られておりますが、それを弟子の南条日住という方が書き留められ、日有上人の御遷化の翌年、文明15年(1483)、これを浄書して総本山第12世日鎮上人にお示しになられたのであります。これが日有上人の121箇条の『化儀抄(けぎしょう)』であります。
総本山大石寺には「山法山規(さんぽうさんき)」という規則がありまして、それが七百年来、厳然と行われておりますが、そのもとは、御開山日興上人の『日興遺誡置文(ゆいかいおきもん)』と、この日有上人の『化儀抄』によるのであります。『化儀抄』の末文には、
「此の上意の趣を守り、行住坐臥(ぎょうじゅうざが)に拝見有るべく候」(聖典1230㌻)
と強く末弟を誡められておりますが、このように末弟を誡められた事柄を、よく心肝に染めて後世に伝えたのであります。それがいつしか「山法山規」という名になって今日に伝えられたのであります。ゆえに私ども日蓮正宗の僧俗は、常にこの『化儀抄』を座右に置き、即身成仏の信心を誤ることのないように、心肝に染めなければならないのであります。

その一つに、
「信と云い、血脈(けちみゃく)と云い、法水(ほっすい)と云う事は同じ事なり。信が動ぜざれば其の筋目(すじめ)違(たが)うべからざるなり。違わずんば血脈法水は違うべからず。夫(それ)とは世間には親の心を違えず、出世には師匠の心中を違えざるが血脈法水の直(ただ)しきなり。高祖已来の信心を違えざる時は我等が色心妙法蓮華経の色心なり。此の信心が違う時は我等が色心凡夫なり。凡夫なるが故に即身成仏の血脈なるべからず」(化儀抄・聖典1207㌻)
と仰せであります。これは大聖人以来、法灯連綿の清らかな日蓮正宗の姿と、その下にあるべき私どもの信心のあり方を示されたものなのであります。

すなわち信とは、
「南無妙法蓮華経とばかり唱へて仏になるべき事尤(もっと)も大切なり」(日女御前御返事・御書1388㌻)
と仰せのとおり、久遠元初の御本仏の御当体である、人法一箇(にんぽういっか)の本門戒壇の大御本尊に境智冥合(きょうちみょうごう)し、色心ともに成仏の境界を得るところにあるのであります。この信心も、血脈法水の通わない信心であるならば、それは邪宗謗法の信心であり、成仏の境界を得ることは断じてできませんし、日蓮正宗の信心とはいえません。ゆえに御先師日達上人は、
「血脈といい、法水というところの法水は、何処から出てくるかということが最も大切であります。それは、我が日蓮正宗に於ては日蓮大聖人であり、大聖人の御当体たる本門戒壇の大御本尊であります。故に、大聖人の仏法を相伝しなければ、大聖人の仏法の法水は流れないのであります」(大日蓮 昭和53年9月号31㌻)
と、相伝の宗旨である日蓮正宗の正しい信心のあり方を御指南なされているのであります。

血脈相承とは、父から子へと血統が受け継がれていく姿にたとえて、師から弟子へと仏法が継承されることをいうのでありますが、日蓮正宗の血脈相承には、総別の二義があるということを知らなければなりません。ゆえに総本山第56世の日應上人は、
「唯授一人嫡々血脈相承にも別付総付の二箇あり。其の別付とは則(すなわ)ち法体相承にして、総付は法門相承なり。而して法体別付を受け玉ひたる師を真の唯授一人正嫡血脈付法の大導師と云ふべし。又法門総付は宗祖開山の弟子旦那たりし者一人として之を受けざるはなし。蓋(けだ)し法門総付のみを受けたる者は、遂には所信の法体に迷惑して己義を捏造し宗祖開山の正義に違背す。例せば宗祖御在世に数多の弟子ありと雖も、独り吾が開山のみ法体別付の相承を受け玉ひ、其の他は法門総付の相承のみ受けしが故に、宗祖滅後各々己義を捏造し、像仏等を建立し以て本尊としたるが如し」(弁惑観心抄211㌻)
と仰せであります。

別付嘱とは法体相承であり、本門戒壇の大御本尊の厳護承継であります。それはあたかも、天台大師が弟子の章安ただ一人に、また伝教大師は義真ただ一人に相承をされたように、師がただ一人の道心堅固な弟子を選んで法を授けられるのであります。いわゆる、宗祖日蓮大聖人は、六人の高弟中、常随給仕第一の日興上人を第二世の嗣法と決められ、弘安5年(1282)9月および10月に『日蓮一期弘法付嘱書』および『身延山付嘱書』を授与せられ、「血脈の次第日蓮日興」と唯授一人の別付嘱をもって、法体を厳護し、広宣流布を達成すべきことを遺命せられたのであります。
そして、一般僧俗に対しては、
「我が門弟等此の状を守るべきなり」(日蓮一期弘法付嘱書・御書1675㌻)
とも、
「背く在家出家共の輩は非法の衆たるべきなり」(身延山付嘱書・御書1675㌻)
とも仰せなされ、異体同心の団結をもって広宣流布に邁進(まいしん)すべきことを厳命されたのであります。

以来、日興上人は第三祖日目上人へ、日目上人は第4世日道上人へと、一器の水を一器に瀉(うつ)すように法水瀉瓶(ほっすいしゃびょう)して、現67世日顕上人へ護持継承せられているのであります。これこそ日蓮正宗独歩の法義にして、即身成仏の根本なるがゆえに、日興上人は、
「このほうもん(法門)は、しでし(師弟子)をたゞしてほとけ(仏)になり候。しでし(師弟子)だにもちがい候へば、おなじほくゑ(法華)をたもちまいらせて候へども、むげんぢごく(無間地獄)におち候也」(佐渡国法華講衆御返事・歴全1-183㌻)
と仰せなされ、さらに『有師物語聴聞抄佳跡』にも、
「当宗の即身成仏の法門は師弟相対して少しも余念無き処を云ふなり」(富要1-191㌻)
等と、師弟相対の大事な所以を仰せなされているのであります。

これに対して法門総付は、大聖人の弟子檀那たる者は等しく受けていくのでありますが、それとても法体を厳護せられる御法主上人の御指南に従うことなくしては、成仏への法門を受けることはできないのであります。
いわゆる、大聖人の弟子に六老僧がありましたが、日興上人を除くほかの五老方は法門相承のみでありましたので、大聖人滅後、いくばくもなく天台沙門と名乗り、釈迦仏を本尊とするに至ったのであります。この間違った信心の姿が何よりも明らかにそれを物語っているのであります。
ゆえに、ここに示された日蓮正宗の真の信心は、本門戒壇の大御本尊を厳護あそばされるお立場の上から、一切衆生を善導せられる御法主上人の御指南に随従していくことが大事であり、この信心の筋目を正すことによって、初めて成仏の境界を遂げることができるのであります。

これを世間の例で言うならば、子供は親の心に従っていくことであり、また出世間で言うならば、師匠の心中を違えぬことを言うのであります。ここの師匠とは、大聖人を根本とする血脈付法の御法主上人を申し上げることは言うまでもありません。
このように、宗祖日蓮大聖人以来の信心を正しく貫くとき、私どもの色心は、初めて成仏の境界を遂げるのでありますが、この信仰をする上で最も大事なことは、信心を励むということと、それを妨(さまた)げる謗法を誡めるということであります。これは相反する二方面でありますが、それを行わしめる心は一つであります。したがって、その心をどこに置くかということが、自分の成仏・不成仏を決定づける大事な鍵になるのであります。ゆえに、この謗法のために成仏の大事を台無しにすることを、
「うるし(漆)千ばい(杯)に蟹(かに)の足一つ入れたらんが如し」(曽谷殿御返事・御書1040㌻)
のたとえをもって誡められているのであります。

日蓮正宗の信心において大事なことは、異体同心の団結であります。大聖人は、
「異体同心なれば万事を成(じょう)じ、同体異心なれば諸事叶ふ事なし」(異体同心事・御書1389㌻)
と仰せであります。異体同心の団結をもって広宣流布に邁進する者同士が、互いにいがみあい、謗(そし)りあうならば、
「若(も)しは在家にてもあれ、出家にてもあれ、法華経を持ち説く者を一言にても毀(そし)る事あらば其の罪多き事、釈迦仏を一劫の間直(ただ)ちに毀(そし)り奉る罪には勝れたり」(松野殿御返事・御書1047㌻)
と仰せのごとき大きな罪障を作り、やがて無間地獄の底に沈んでしまうのであります。ゆえに、当山開基の日有上人は『化儀抄』に、
「此の信心が違う時は我等が色心凡夫なり。凡夫なるが故に即身成仏の血脈なるべからず。一人一日中に八億四千の念あり、念々中の所作は皆是れ三途の業因」(聖典1207㌻)
と仰せなされております。仏法に違背して成仏を遂げられない迷いの人間は、誰でも一日に八億四千ものたくさんの思念が生滅するのでありますが、それらの思念は、みな地獄・餓鬼・畜生の三悪道へ堕ちる原因を作っていくことになるとの謂(い)いであります。

それゆえに、大聖人以来の信心を正しく受け継いで、迷いの思念を即身成仏の血脈に入れ、妙法蓮華経の当体蓮華仏に成ることが大事なのであります。
日蓮大聖人は『生死一大事血脈抄』に、
「生死一大事血脈とは所謂(いわゆる)妙法蓮華経是(これ)なり(中略)過去の生死・現在の生死・未来の生死、三世の生死に法華経を離れ切れざるを法華の血脈相承とは云ふなり」(御書513㌻)
と仰せであります。ここに生死とは、我々の三世にわたる永遠の生命を示されているのであります。一大事とは、最大肝要ということであり、大御本尊の御事を申すのであります。ゆえに永遠の生命において、常に御本尊を根本とした信心を貫き、それが親の血が子供に流れるように、子孫・末代に至るまで、常にこの妙法蓮華経と離れないことを「生死一大事の血脈」というのであります。ここに正しい日蓮正宗の信心があるのでありまして、日有上人の御指南も、まったくここを指しているのであります。

今や、宗祖日蓮大聖人第七百御遠忌の佳節の真っただ中であります。この意義ある年に巡り合え、ともどもに御報恩申し上げることのできる福運は、各々宿縁深厚なるがゆえであります。
このすばらしい成仏の境界、これを永遠(とわ)に持続させる方法はただ一つ、大聖人の御金言を根本として、御先師の御指南を肝に銘じて、自行化他にわたる、たゆまぬ仏道修行に精進していく以外にはなく、またそれが御本仏大聖人に対する最高の御報思になるのであります。
皆様のますますの御健勝と、当山の寺檀和合しての御発展を心よりお祈り申し上げ、日有上人第五百回遠忌御報恩のための講演とさせて頂く次第であります。

御法主日顕上人猊下御説法(大日蓮428号・昭和56年10月号)

(昭和56年9月28日 総本山第九世日有上人第五百回遠忌大法要御題目講)

『妙法蓮華経分別功徳品第十七』に云(のたまわ)く 「又復(またまた)、如来の滅後に、若(も)し是の経を聞いて、而(しか)も毀呰(きし)せずして随喜の心を起(おこ)さん。當(まさ)に知るべし、已に深信解(じんしんげ)の相と為(な)す。何(いか)に况(いわ)んや、之を読誦(どくじゅ)し、受持せん者をや。斯(こ)の人は、則(すなわ)ち為(こ)れ如来を頂戴したてまつるなり」(新編法華経456㌻)

本日は日有上人第五百回遠忌御逮夜に当たり御題目講を修しましたるところ、信徒各位多数御参詣あって異体同心、盛大に御報恩申し上げることができ、まことに有り難く存じ上げます。
御承知の通り、日有上人は宗門の中興の祖として、その鴻徳(こうとく)は五百年を経過した現在においても赫々(かっかく)と輝きを増し、その卓越する信解・人格より発した数々の御指南は、今もなお宗門の化儀・信条の基本として緇素(しそ)の服膺(ふくよう)するところであります。

即ち外に対しては広く諸国を回遊して、正法正義の立場より他門の諸師と問答・論判、もってその邪見を矯(ただ)し、内においては門徒緇素に宗開両祖の血脈に基づく法義を示し、並びに化儀法式を制定して正法護持、弘通の筋目を正されたのであります。
今夕(こんせき)、五百回遠忌の御題目講に当たり、その法義並びに化儀の全般についてお話し申し上げることは、浅学非才、かつ時間のうえからも到底、許されないことでありますから、その要旨のわずかな一端について拝仰(はいごう)する次第であります。

その前に一言申しておきたいことは、宗門先師のそれぞれの教学について、血脈法水の存在を信じない日蓮宗系他門の学者は、あくまで本宗の師弟相対の信心を識(し)らず、自己の短見を自由に駆使するところが勉学立論(りゅうろん)の立場の基本となっております。そのために我が門の各先師に対してもその我意中心の見解よりして、我が宗門の法義・信条は七百年間、縦に一本の筋が通っており、常恒不変であることを見ようともせず、殊更(ことさら)その相承の尊い所以(ゆえん)に背反しております。故に日有上人、あるいは日寛上人の教学についても横に区切って個々の特質のみを見、それも一部分、一部分に切り刻んで種々の批判・見解を述べるのが常であります。

また宗門の中においても、七百年間の血脈の厳然たるを信解できない一部謗法の者共が、その邪見より先師の書の表現上の一分・一文に執して我説を立てる姿も最近、頓(とみ)に顕われております。が、ともにその縦の面、即ち七百年の歴史を一貫する師弟相対の信心による、いささかも濁りなき血脈法水のうえに歴代各上人がその時代、時代によって必要な法門・化儀を顕わされていることに思い及ばず、自らの短見に利用するのみの誹謗・堕獄の学説に堕しているのであります。我が門の僧にしてかかる者共のあることはまことに不思議であり、悲しむべきことでありますが、要するに、心中に一点、仏法の大綱に背く誹謗心ある故に、先師の書を素直に拝することができず、自らの叛逆の心に基づいて曲会(きょくえ)するためであります。

一例として日有上人の『化儀抄』の中の有名な文として
「手続(てつぎ)の師匠の所は、三世の諸仏、高祖已来代々上人のもぬけられたる故に、師匠の所を能(よ)く能く取り定めて信を取るべし、又我が弟子も此くの如く我(われ)に信を取るべし、此の時は何れも妙法蓮華経の色心にして全く一仏なり。是れを即身成仏と云うなり」(日蓮正宗聖典1203㌻)
の文は、本仏大聖人より二祖日興上人、日興上人より三祖日目上人、以下、代々の上人として仏法の法水血脈は信をもって伝えられる故に、それが基本となって更に縦横に師弟、師弟の因縁により、弟子はその師の行体を深く見定め、信をなすべきであり、そこに師弟相対・即身成仏の大直道があるといわれるものであります。

しかるに「手続の師匠」の文に拘泥(こうでい)し、かつ悪用して〝現今の末寺の住職が信徒に対する手続の師であり、 自分らの気に染まない総本山の法主の指南は聞く必要はなく、末寺の住職こそ手続の師であるから、その指導を重く見ることが日有上人の意である〟などの詭弁(きべん)を末寺の信徒に教え、また総本山の真意と仏法の大網を信解できない一部の信徒がそれを正しいことに思い込んでいるのは、まことに本末顚倒の曲解といわねばなりません。

文明らかに、手続の師匠の元のところに「高祖已来代々上人のもぬけられたる故」とある如く、総本山の法水血脈がまず大前提条件として存し、手続の師匠がその元の総本山貫主に伝わる法水血脈に信を取る故に、またその弟子分は手続の師に信を取るのであります。その手続の師たるものが根本の総本山に背反する時、もはや手続の師たる資格は消滅し、仏法違背の大罪人となるのは当然であります。

特に、先に挙げた文の中の「又我が弟子も此くの如く我に信を取るべし」の文は日有上人自らのことを仰せであり、当代の法主のところに高祖・開山の法水血脈の流入(るにゅう)するを信ぜよ、との御意(みこころ)であります。その時にはすべてが妙法蓮華経の心と身体であって、その身そのまま、事(じ)の即身成仏であり、この外に末法の、また本宗の成仏はないとの御指南であります。いかに一部の誹謗者の解釈がこじつけであるかを、よく知るべきであります。
これを要するに、日有上人の巨細(こさい)となく広大な御指南は、すべて大聖人、日興上人の法水血脈に基づかれて宗教・宗旨を決判あそばされ、その大本より、僧俗の仏法を奉行(ぶぎょう)するに当たっての心得・筋目を正しく指南されるところに終始しております。

また、他の日蓮門下のある者は、日有上人の教学を目して〝機根中心である〟と言っておりますが、これもその一を知って十を知らない短見であります。由来、宗祖大聖人の仏法は、教・機・時・国・教法流布の次第よりして決判あそばされることであり、そのなかの〝機〟の法門は仏が興出して説法・化導される対象として最も直接の関係である故に、当然ゆるがせにならないところであります。

したがって日有上人の御指南たる『化儀抄』にも
「当宗には断惑(だんなく)証理の在世正宗の機に対する所の釈迦をば本尊には安置せざるなり。其の故は未断惑の機にして六即の中には名字初心に建立する所の宗なる故に、地住已上の機に対する所の釈尊は名字初心の感見には及ばざる故に釈迦の因行を本尊とするなり。其の故は我等が高祖日蓮聖人にて在(おわ)すなり」(聖典1228㌻)
とありますが、これは一往、機を面(おもて)に立てて説明されたところの一面に過ぎません。しかも機の法門は日有上人の独創ではなく、宗祖大聖人の各御書、特に『四信五品鈔』における、末法の衆生の一念信解・初随喜の位を名字即と決判あそばされた趣意を受け継がれての御指南であります。しかし、日有上人の説かれた法門の筋目も当然、機の一辺のみではなく、教法について、時について、流布の前後について種々示されているにもかかわらず、その一文を取り、軽忽(けいこつ)にその一片のみを判断することは、まさに群盲撫象(ぶぞう)の体たらくであります。

これと趣意は異なりますが、最近の宗門の信仰基準の狂った、本山を誹謗する僧俗の論議も皆、一部分に執する点は共通しており、日有上人や御先師の文を見聞し、依用しつつ、日有上人または御先師の御意(みこころ)を殺している姿が見受けられるのであります。
さて、先の文に続く『化儀抄』の文に
「滅後末法の今は釈迦の因行を本尊とすべきなり。其の故は神力結要(けっちょう)の付嘱とは受持の一行なり。此の位を申せば名字の初心なる故に(乃至)是れ則(すなわ)ち本門の修行なり。夫(それ)とは下種を本とす。其の種をそだつる智解(ちげ)の迹門の始めを熟益とし、そだて終わって脱する所を終わりと云うなり。脱し終われば種にかえる故に迹に実体なきなり云云」(聖典1228㌻)
また云(のたまわ)く
「法華経の本迹も皆迹仏の説教なる故に本迹ともに迹なり(乃至)さて本門は如何(いかん)と云うに久遠の遠本本因妙の所なり。夫とは下種の本なり。下種とは一文不通の信計りなる所が受持の一行の本なり」(聖典1226㌻)
と示され、明確に末法弘通の時を判ぜられると共に、神力結要の法体が本門寿量の根本、久遠本因妙下種の妙法であるとして、法と仏の本体を的示されております。

しかも「迹に実体なきなり」との御指摘は、釈尊一代の化導はことごとく、その迹本二門共に迹の化導であり、その本は久遠名字・本因妙にあって、仏の種を初めて下ろす下種の位であるから、そこに永遠の仏法を一括する実体が存するとの意であります。したがって釈尊一代仏教は最後の法華本門・脱益の化導において収羅結撮(けっさつ)して元の下種に還る故に、釈尊仏教に真実の実体はないと決判されるのであります。これまさしく、機のみにあらず仏法の本体・実義のうえから、大聖人の仏法と釈尊の仏教ではその形貌(ぎょうみょう)に種脱の不同があること、また釈尊一代の化導もすべて久遠名字・本因妙に帰する故に悉(ことごと)く名字即の仏法に判じ撮せられることを述べておられるのであります。
故に機根中心などの批判は全く一面のみの、軽率な判断に過ぎないのであります。

要するに、日有上人の御指南は、釈尊の仏法乃至天台の法門について、それを智によって悟る行き方と判じ、これに対し大聖人の宗旨は、信をもって得道するという二筋の立て分け、筋目が随処に拝せられるのであります。
即ち、それはまた本果と本因、下種と脱益、本門と迹門、分真・究竟即と名字の初心との相違に当たることを述べられるのであります。
さきほど拝読した文における「断惑証理」とは、衆生の個々に見惑八十八使、思惑八十一使、塵沙(じんじゃ)無量の惑、根本四十二品の無明の惑等、実に数多くの、また深重なる煩悩がありますが、これが衆生の三世に流転する原因であると示すため、これらの惑いを一つひとつ断じ尽くしていくところに、その煩悩に応じた、あるいは空(くう)、あるいは仮(け)、あるいは中(ちゅう)、あるいは円融の真理を証するということであります。これが釈尊仏教の教導の姿であります。

しかるに、この煩悩はまことに深重であり、到底今生(こんじょう)一生に断ずることは不可能であります。生まれ変わり死に変わって、永劫の長時をかけて見思・塵沙・無明の三惑煩悩を断じていくのであり、一度断ずればその部類の煩悩は未来永劫に起こることのないのを「断惑」というのであります。また一度悟れば、今生はおろか、何生の世にも明々とその理を継続して忘れることのないのを「証理」と申します。
天台が「若(も)し相似の益は隔生すれども忘れず」と言う如く、相似即、分真即等の高位に至っては、生まれ変わっても忘れることがないのであります。これは、我々末法の凡夫が、ちょっと思いついて嗜好(しこう)品を断つ、または何らかの癖(くせ)を止めようとするが、三日後にもう後戻りしたり、なにか思いつきで悟りを開いたように思っても、心境が変化すればすぐその考えが消えてしまうようなものではありません。

いわゆる、貪瞋癡(とんじんち)等の一つひとつを全く断じて以後、起こさざる修行は、釈尊在世の縁による衆生にして初めて可能といえるのであります。これらの衆生は、仏道上の煩悩断尽に基づく古来の因縁よりしてその能力に勝れている故に、かかる教旨を説く釈尊を本尊として仰ぐのであり、またそこに感応もあるのであります。
しかるに、末法は荒凡夫の衆生の充満する時であり、到底このような修行はできないのであるから、釈尊を本尊とすることも畢竟(ひっきょう)、矛盾するのであります。
ここに久達の本仏・日蓮大聖人の出現し給う所以があり、釈尊の因行たる大聖人を本尊と仰ぎ、煩悩充満の凡夫、愚者・迷者が名字即という仏法の名字のみを信ずる位において、ただ信の一字をもって余念なく南無妙法連華経と唱え奉るところに即身成仏がある、と日有上人が常に決判せられる次第であります。
故に日有上人の御指南では、末法は貪瞋癡の三毒強盛の凡夫が一切の智解・分別を捨て、ただ信心によって師弟相対し、妙法を受持すべきことを強調せられ、簡明直截(ちょくさい)に宗旨の本義を指示せられるところに、その特徴を拝するのであります。

そして、この信を基(もと)として行が存するのであります。行とは法華経の受持であり、要法たる題目修行でありますが、更にこの精神をもって日常の一切に当たるところ、その振舞いを〝行体・行儀〟と申すのであります。その行体・行儀について『化儀抄』に
「行体行儀の所は信心なり(乃至)爾(しか)るに高祖・開山の内証も妙法蓮華経なり。爾るに行体の人をば崇敬(そうぎょう)すべき事なり」(聖典1203㌻)
と説かれ、また
「仏の行体をなす人には師範たりとも礼儀を致すべし。本寺住持の前に於ては我が取り立ての弟子たりとも等輩の様に申し振る舞うなり。信は公物なるが故なり」(聖典1216㌻)
と御指南であり、特に行体の大切なことを述べられております。

思うに、種々なる仏法・世法に関する筋目、立て分けの指南もすべて、この行体・行儀のところより出(い)で、また、これに属するのであります。要するに信心とは、本仏大聖人と妙法蓮華経に対し奉る絶対の帰依の心であり、その信仰の発露するところ、行の体相が顕われるのであります。この行のない信仰は、悪縁に値(あ)えば退転する如き微弱なものであり、正しいものではありません。故に日有上人は、常に行体の大切なることを説かれております。

今、私として考えるに、心に御本尊に対し奉る強い信仰があれば、日常の勤行唱題の形についてみても、人から言われずとも眼はしっかり御本尊を拝向し、姿勢もおのずから整って正しく合掌印を結び、口には常に妙経唱題を読誦する、真剣にして真面目な態度が顕われます。これ、勤行における正しい行体の振舞いであります。また日常の作務においても各自、その身分に応じて行うべきところがありますが、要は信心を本として行うところ、常に心に喜び有って、真心よりの仏祖三宝に対し奉る給仕・奉仕の姿が頭われるのであります。

かの法華経『提婆品』においては、釈尊が過去の因行の一つとして国王となり、阿私仙人に従って法華経を修行する姿を次のように説かれております。
「王、仙(せん)の言(ことば)を聞いて、歓喜踊躍(ゆやく)し、即ち仙人に随って、所須(しょしゅ)を供給(くきゅう)し、菓(このみ)を採(と)り水を汲(く)み、薪(たきぎ)を拾(ひろ)い食(じき)を設け、乃至身(み)を以(も)って牀座(じょうざ)と作(な)せしに、身心(しんじん)倦(ものう)きこと無かりき。時に奉事(ぶじ)すること千歳(せんざい)云云」(法華経357㌻)
これは有名な、釈尊の因行としての千歳給仕の文でありますが、この「身心倦きこと無かりき」ということこそ妙法に対する信心の功徳であり、身を粉(こ)となし、手足を用いて行者に奉仕することは、信あれば何人(なんびと)にも可能な修行の大道であることを説かれるのであります。即ち、日常の作務・生活のなかに妙法蓮華経を行ずる姿・形を行体といい、それは妙法に対する信心によって顕われるのであります。

しかして、その妙法蓮華経とは宗祖大聖人、日興上人の御内証でありますから、行体の人は大聖人の御内証に合致するのであり、そこで〝行体を顕わす人を崇敬せよ〟と仰せられるのであります。また、妙法を信じ守り、給仕する姿はそのまま仏の姿であるから、たとえそれが自分の弟子であっても、行体の人に対しては、それ相当の礼儀をもって尊敬すべきであるとして、行体を尊重されるのであります。
先の文の「本寺」とは総本山のことであり、その住職の前に出た時は、たとえ自分の常子であっても同輩としての物腰・言葉で対するということは、公の場においては個々の立場の師弟の義に執(とら)われないことをもって、その本義とするのであります。

これは必ずしもその文の形に拘泥(こうでい)せず、その心を取ることが肝要であります。それには「信は公物なるが故なり」の語(ことば)こそ大切であると思います。即ち、妙法蓮華経は宇宙法界を一貫する大道であり、また直ちに宗祖日蓮大聖人、日興上人、仏祖三宝の御意に合致して成仏の道筋を顕わすのが、信の信たる所以(ゆえん)であります。そこには本来、私の考えや振舞いがあってはなりません。大聖人は『兄弟抄』に
「一切はをや(親)に随ふべきにてこそ候へども、仏になる道は随はぬが孝養の本にて候か」(御書983㌻)
とお示しであります。親が仏法を誤って邪義邪宗を信ずる時、また形だけ正法正義の相を残しつつ宗旨の大綱に背いて謗法を犯している時など、我が親であることに執われて決然と善意のけじめをつけず、それに随っていくならば、自らも謗法となるのであります。
これも「信は公物」即ち公の物であるからであります。もちろん親子の関係に限らず兄弟、妻子、友人等の関係等にとらわれて、仏法の大義に背く輩が今日、多く見受けられますが、これも信が公物なることを忘れている姿であります。

しかるに、今日も道心ある僧侶においては「我が取り立ての弟子」たりとも宗門の公の職務を行うに当たっては、師は喜んでその下座(しもざ)に座すという美(うるわ)しい姿があり、また信徒が広宣流布のための団体活動の組織中には、適材・適所のうえから子が親よりも、弟が兄よりも、また妻が夫よりも高い立場につくことがあっても、お互いにいささかも異心を差し挟(はさ)まず、素直な心で活動する姿もあります。これらはまさに日有上人の「信は公物なり」の御言葉を実践する姿であり、行体・行儀にかなう姿であると思います。
まさにこの濁劫悪世におけるもろもろの恐怖(くふ)あって正法を弘め難き世に、折伏を行じ、多くの人に正法を受持せしめる行こそ仏の使いであり、本宗行体の中心基準に当たるものと確信いたします。

日興上人『遺識置文(ゆいかいおきもん)』に云(のたまわ)く
「未(いま)だ広宣流布せざる間は身命を捨てゝ随力弘通を致すべき事」(御書1884㌻)
「身軽法重の行者に於ては下劣の法師たりと雖(いえど)も、当如敬仏(とうにょきょうぶつ)の道理に任せて信敬(しんぎょう)を致すべき事」(同)
「弘通の法師に於ては下輩たりと雖も、老僧の思ひを為(な)すべき事」(同1885㌻)
等の御指南のなかの「身命を捨てゝ随力弘通」の文「身軽法重の行者」「弘通の法師」の姿こそ、真実の行体にかなうことは明らかであると拝します。
宗門の人々は、今後、万世にわたり「行体の人をば崇敬すべき事なり」の日有上人の仰せを深く心肝に染め、僧俗一致して大法興隆・広宣流布に邁進することが、仏祖三宝はじめ日有上人の御恩徳に報(むく)ゆる道であることを申し上げ、本日の法話を終わる次第であります。

『四信五品鈔』に云(のたまわ)く
「問ふ、其の義を知らざる人唯(ただ)南無妙法蓮華経と唱へて解義(げぎ)の功徳を具するや不(いな)や。答ふ、小児乳(ちち)を含むに其の味(あじわい)を知らずとも自然(じねん)に身を益(やく)す。耆婆(ぎば)が妙薬(みょうやく)誰(たれ)か弁(わきま)へて之(これ)を服せん。水心(こころ)無けれども火を消し火物(もの)を焼く、豈(あに)覚(さと)り有らんや。竜樹(りゅうじゅ)・天台(てんだい)皆此の意(こころ)也。重ねて示すべし。問ふ、何が故ぞ題目に万法を含むるや。答ふ、章安(しょうあん)云はく「蓋(けだ)し序王(じょおう)とは経の玄意(げんい)を叙(じょ)す。経の玄意は文の心を述(じゅつ)す。文の心は迹本に過ぎたるは莫(な)し」と。妙楽(みょうらく)云はく「法華の文の心を出(い)だして諸教の所以(ゆえん)を弁ず」云云。濁水(じょくすい)心(こころ)無けれども月を得て自(おのずか)ら清(す)めり。草木(そうもく)雨を得て豈(あに)覚(さと)り有って花さくならんや。妙法蓮華経の五字は経文に非(あら)ず、其の義に非ず、唯(ただ)一部の意ならくのみ」(御書1114㌻)

「創立555周年記念法要・経過報告」総代・赤池信秋殿

(令和4年5月15日 大杉山有明寺創立555周年記念法要)

新緑の季節を迎え、本日ここに「大杉山有明寺創立555周年記念法要」が奉修されましたこと、講中一同、喜びでいっぱいであります。日蓮正宗宗会議長・妙光寺御住職・土居崎日裕御尊能化、甲信布教区宗務支院長・法修寺御住職・石山寿恩御尊師をはじめ、布教区内外の御尊師方の御臨席を賜り、誠に有り難うございます。講中を代表し、経過報告をさせていただきます。

当有明寺は、総本山第9世日有上人が応仁元年(1467)・御年66歳の時、第10世日乗上人へ血脈相承されたのち、隠居所として当地に法華堂を創建されたことに始まります。
日有上人は応永9年(1402)4月16日、南条家に出生され、幼少にして第8世日影上人のお弟子となられました。応永26年(1419)8月、18歳の若さで日影上人より総本山第9世の法脈を受けられると、宗門復興のため、奥州・京都・越後など、諸国の布教をされるとともに、第5世日行上人以来、90年間途絶えていた国家諫暁を、永享4年(1432)に復活されました。

日有上人は寺運興隆にも力を注がれ、大石寺御宝蔵の改築、ならびに客殿の創建など、山内の整備に努められました。地方においても、静岡の本廣寺・要行寺を建立されたほか、荒廃していた寺院の再建に努められ、日有上人を「中興開山上人」と仰ぐ寺院もあります。
応仁元年、第10世日乗上人へ血脈相承され、当地に隠居されるも、日乗上人・第11世日底上人の御遷化に伴い、文明4年(1472)、大石寺に戻られ再登座なされます。文明14年(1482)、第12世日鎮上人に御相承されるまで10年間、再び宗門を統率されたのち、当地に戻られ、同年9月29日、81歳で御遷化あそばされました。

日有上人が御遷化されますと、当地には御廟所が建てられ、日有上人の業績と御徳を偲ぶ全国からの参詣者があとを絶たず、沿道の民家は、参詣者の宿の支度にも苦労するほどであったと言います。
そのような状況のなか、延宝8年(1680)9月29日に、第17世日精上人により日有上人の御影像が造立され、また元禄年中(1690年前後)には、時の住職であった有明坊日徳師が、この地に本格的な寺院の建立を発願し、第26世日寛上人の多大な支援を得て、大杉山有明寺が建立されました。さらに、元文5年(1740)3月8日には、第30世日忠上人により、日有上人の板御本尊が造立され、この御本尊様が現在も本堂に御安置されております。

その後、明治時代に入ると廃仏毀釈の影響を受け、著しく衰退しますが、昭和34年6月3日、第65世日淳上人の御構想のもと、宗務院に「有明寺復興保存会」が設置され、翌35年9月29日、第66世日達上人を中興開基と仰いで再建されました。昭和56年6月19日には、日有上人第500回遠忌を記念して、第67世日顕上人大導師のもと、本堂・庫裡新築落慶入仏法要が奉修され、同63年には墓苑も整備されました。
平成3年11月28日、創価学会が宗門より破門され、全国的に法華講支部結成の気運が高まり、平成4年11月23日、法華講有明寺支部が結成され、現在に至っております。

また、毎年4月28日の立宗会の日には、総本山において新説免許を受けられた御僧侶が、日有上人の御徳を偲び、御報恩のために当山に参詣されることが習いとなっております。今は新型コロナ感染症の影響で「教師補任式」が延期され、御僧侶の参詣も中断されておりますが、再開を楽しみにお待ち申し上げております。

さて、こうして有明寺は再び多くの方々が参詣されるようになり、そのなかで、当時の御住職と信徒は異体同心し、全国に広がる講員の掌握と組織作りが行われました。
折伏や御登山にも励むなか、平成18年には、日有上人御廟所建屋の耐震補強工事、当山中興開山・有明坊日徳師の300回遠忌記念塔建立。平成19年には有明寺共同墓所の新設。平成24年には、三師塔建立と墓苑整備、本堂・庫裡・信徒会館の補修工事、本堂正面玄関の門柱洗いと山号額・寺号額の化粧直し、動物供養塔の建立。平成29年には「有明寺縁起」の記念石碑建立、信徒会館の内装整備と御厨子の改修等が行われ、平成30年には墓苑内に合葬所が新設されました。

そして令和2年1月30日、当山第35代御住職として石井正恩御尊師が就任されました。就任直後から、新型コロナ感染症が世界規模で大問題となり、猛威を奮う中、石井御住職は積極的に全国を回られ、各地で宅御講を開催して信心指導をされ、また家庭訪問で信徒を激励くださいました。
さらに、2年後に有明寺が創立555周年を迎えることから、そこに焦点を当てて講中の内部充実と拡大を図り、「今こそ繋がろう!」とのスローガンを掲げ、コロナ禍が続く中、支部役員も一体となって、折伏・育成・法統相続のために家庭訪問を行いました。また、地元山梨のほか、東京・大阪・佐賀でそれぞれ「地域大会」を開催し、これには支部役員も御住職に同行し、近隣の御住職にも参加していただきました。
さらに、昨年8月には有明寺本堂で「プレ大会」も開催して、創立555周年記念法要に向けて、その気運を高めていきました。

そのなかで、この度の記念事業として、玄関内外のスロープ設置と周辺整備、檀信徒トイレの男女分離工事、建物全体の修繕および境内整備が打ち出されました。また、記念出版として「日有上人化儀抄要文集」が発刊され、この度、記念品として皆様にお配りしております。これは121カ条にわたる化儀抄の中から、特に信徒の信仰に資する条文を抜粋し、通釈と要点を加え、それを日めくり形にして、毎日拝読できるようにしたものです。
これら記念事業の完遂を目指して、昨年末から特別御供養の勧募を行ったところ、全国有縁の檀信徒から篤信の御供養がお供えされ、工事に着手してまいりました。ただ、新型コロナ感染症に加えて、ウクライナ情勢も影響し、工事部品がなかなか手に入らず、一部の工事が残っております。引き続き工事を進め、すべて完了して創立555周年の御報恩の一端にお供えしたいと思います。

最後に、今、宗門は御法主日如上人猊下の御指南のもと、すべての講中で折伏を中心とした信心活動が行われています。有明寺は信徒が全国に広がり、講中のまとまった活動が困難な状況ですが、今年から新たに「繋ごう、未来へ!」とのスローガンを掲げ、石井御住職のもと一致団結・異体同心で進んでおります。
本日の法要を契機に、さらなる折伏・育成・法統相続に励み、仏祖三宝尊、ならびに日有上人に御報恩申し上げることをお誓いし、経過報告とさせていただきます。有り難うございました。